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NHK紅白歌合戦60年史 ④紅白黄金時代の終焉  [NHK紅白歌合戦]

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NHK紅白歌合戦60年史 ④
紅白黄金時代の終焉 「歌手」「芸能プロ」との崩れるバランス

イザ!
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/entertainment/music/618809/


■「普通のおばさんに…」名語録続出

 昭和40年代後半から50年代にかけての紅白は、西城秀樹・野口五郎・郷ひろみの「新御三家」、桜田淳子・山口百恵・森昌子の「花の高1トリオ」らの台頭やベテラン陣の復活などで、視聴率も依然として60~70%台をキープしていた。

 高1トリオの初そろい踏みは49年(第25回)、翌50年(第26回)にはキャンディーズが「年下の男の子」で登場。55年(第31回)には「青い珊瑚礁」の松田聖子、「哀愁でいと」の田原俊彦が初出場を果たし“アイドル紅白”が鮮明になった。56年(第32回)には客席審査のカウントに「日本野鳥の会」の調査員が起用されるなど、演出に工夫も見られた。

 初登場あればラストステージあり。59年(第35回)は、結婚を機に「普通のおばさん」に戻りたいと宣言した都はるみ一色となった。大トリで「夫婦坂」を熱唱後、泣き崩れる都を鈴木健二アナウンサーが「私に1分間時間を下さい」との言葉とともに都を説得し、紅白史上初のアンコールとなる「好きになった人」を大合唱。関東地区では黄金時代を思い起こさせる78・1%(関西は63・1%)を記録している。


 一方で、NHKと歌手とレコード会社、芸能プロダクションとの関係に微妙な変化が現れ始めたのもこの頃からだった。

 48年(第24回)、南こうせつ・伊勢正三・山田パンダによるフォークグループ「かぐや姫」は「神田川」で出場が決まったが、歌詞の中に出てくる「(24色の)クレパス…」が登録商標だったことから、商品名の使用を規制するNHKが一般名詞である「クレヨン」への変更を要求。これに反発した彼らは出場を辞退した。それ以降、フォーク・ニューミュージック系歌手の間に「紅白に出ないのが格好いい」という風潮が生まれ、同系歌手の出場辞退が相次ぐことになった。

 53年(第29回)には、前年に「ウォンテッド」で初出場した人気絶頂のピンク・レディーが民放のチャリティー裏番組に出演。NHKは翌年以降、2人を選考していない。復帰するのは2度目の再結成後の平成元年(第40回)まで待つことになる。

 61年(第37回)には、北島三郎が「暴力団の新年会へ出席をした」との理由で出場を辞退。ところが、NHKがやはりあいまいな対応を取ったことから、同年の特別審査員に選ばれていた演出家・蜷川幸雄氏が反発。「世論という目に見えぬものの名を借りた道徳管理にほかなりません」などとする声明文を出し、こちらも出演を辞退している。

 「NHKの対応もさることながら、かぐや姫にせよ、ピンク・レディーにせよ、それまで絶対的な同局に対して歌手側の意向が通るようになってきた。紅白の曲がり角を象徴する出来事だった」とは芸能評論家の松枝忠信氏。

 ■黄金時代の終焉

視聴率もこの時期を境に低下していく。音楽ジャンルの多様化やライフスタイルの変化などから、都はるみの「引退」以降は、60年(第36回)の55・5%→54・9%→47・8%とたどる。平成元年に就任した島桂次会長からは、ついに「打ち切り容認」発言が飛び出し、紅白に代わる国民的番組の企画を指示している。

 同年暮れの第40回は放送時間を4時間25分に拡大して2部構成がスタート。だが、そうしたトップの発言が、現場の士気に微妙な影を落としたのだろうか、視聴率は第1部38・5%、第2部48・4%。これ以降、「紅白」は迷走化することになる。



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