NHK紅白歌合戦60年史 ②「歌合戦とは何事だ」 [NHK紅白歌合戦]
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NHK紅白歌合戦60年史 ②
「歌合戦』とは何事だ」GHQに怒られた「第1回紅白」
(イザ!)
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/entertainment/music/618666/
■戦後の混乱の中で産声
テレビ放送開始を2年後に控えた昭和26年1月3日午後8時。紅白歌合戦の第1回は、東京・内幸町のNHK東京放送会館で多くの観客を前で産声をあげた。同年秋にはサンフランシスコ講和条約調印、敗戦国・日本がアメリカの占領下から自主独立に踏み出す直前のことだ。
ラジオのマイクに向かう出場歌手は、紅組が「桑港(サンフランシスコ)のチャイナタウン」の渡辺はま子、「星のためいき」の二葉あき子、「憧れの住む町」の菅原都々子ら。白組が「長崎の鐘」の藤山一郎、「赤城かりがね」の東海林太郎ら“戦前派”に加え、やはり戦前から歌謡界を支えてきた“古賀メロディー”の代表作「湯の町エレジー」の近江俊郎ら計14組。司会は声優の加藤道子、藤倉修一アナウンサーが務めた。
実は、この5年前。終戦間もない20年11月に“紅白のひな型”とされた「紅白音楽試合」が放送された。敗戦ショックから人々が心のよりどころを求める中、進駐軍を介してジャズなどの外国音楽が一気に流入した。「そんな新時代にふさわしい音楽番組を作ろう」との方針から、近藤積(つもる)プロデューサーは「スポーツ・セックス・スリル」の3要素を盛り込み、男女が分かれて戦う方式を発案した。
■GHQから“ダメだし”
この時、監督下にあったGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)内のCIE(民間情報教育局)に放送許可を申請したが、敗戦国がこの期に及んで「合戦=battle」とは何事かと激怒され、「試合=match」で許可を得たとのエピソードも残っている。
「旅の夜風」の霧島昇ら戦前の流行歌や、戦後ヒット曲の第1号となった「リンゴの唄」の並木路子のほか、クラシックから新内流しまで26組が出演。近藤らはこの時の反響に手応えを感じ、いつかは本格的に実現したいと考えていた。
それから5年。記念すべき第1回紅白は、聴取者の関心を引くため出演歌手や曲目を事前に明かされなかった。そして、オープニングの入場行進が始まるやいなや…。近藤はその時の手応えを次のように述懐している。
「勝負はあった、とわれわれは思った。行進が終わるやいなや、ファンからの激励電話第1号が飛び込んできたからである。それこそ〈紅白音楽試合〉にも見られなかった反応の早さであった」(NHKウイークリー・ステラ臨時増刊「紅白の50年」)
■「正月」から「大晦日」に
翌27年の第2回は60分から90分に延長し、出場歌手も24組に増えた。歌謡曲や民謡のほかに、OSK日本歌劇団出身の笠置シヅ子の「買物ブギ」など、ジャズの影響を受けた開放的な曲も顔を見せ始めた。
28年の第3回までは正月の単発番組として放送されたが、同年2月にテレビ放送が開始されたことから大みそかの番組としてスタートする。つまり、この年は紅白が2回行われたことになる。会場は年を追うごとに観覧希望者が増えたことから、NHKから北東約1キロの有楽町にある日本劇場(日劇)に移動。高橋圭三アナの名調子もこの年から始まっている。
実は、会場探しをめぐっては、正月の劇場は公演がめじろ押しで“空き”がないことから、NHKは窮余の策として大みそかにずらしたといわれている。もし、会場が押さえられていたら、その後の発展があったかどうか興味深い。
そんな紅白に、昭和30年にはテレビ放送を開始したばかりのKRテレビ(現TBS)が同時刻に「オールスター歌合戦」をぶつけてきた。だが、まったく動じることなく、31年の第7回には50組に増加、40分延長(午後9時5分~11時30分)されるなど、文字通り“大みそかの風物詩”として定着していく。(豊田昌継)
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NHK紅白歌合戦60年史 ②
「歌合戦』とは何事だ」GHQに怒られた「第1回紅白」
(イザ!)
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/entertainment/music/618666/
■戦後の混乱の中で産声
テレビ放送開始を2年後に控えた昭和26年1月3日午後8時。紅白歌合戦の第1回は、東京・内幸町のNHK東京放送会館で多くの観客を前で産声をあげた。同年秋にはサンフランシスコ講和条約調印、敗戦国・日本がアメリカの占領下から自主独立に踏み出す直前のことだ。
ラジオのマイクに向かう出場歌手は、紅組が「桑港(サンフランシスコ)のチャイナタウン」の渡辺はま子、「星のためいき」の二葉あき子、「憧れの住む町」の菅原都々子ら。白組が「長崎の鐘」の藤山一郎、「赤城かりがね」の東海林太郎ら“戦前派”に加え、やはり戦前から歌謡界を支えてきた“古賀メロディー”の代表作「湯の町エレジー」の近江俊郎ら計14組。司会は声優の加藤道子、藤倉修一アナウンサーが務めた。
実は、この5年前。終戦間もない20年11月に“紅白のひな型”とされた「紅白音楽試合」が放送された。敗戦ショックから人々が心のよりどころを求める中、進駐軍を介してジャズなどの外国音楽が一気に流入した。「そんな新時代にふさわしい音楽番組を作ろう」との方針から、近藤積(つもる)プロデューサーは「スポーツ・セックス・スリル」の3要素を盛り込み、男女が分かれて戦う方式を発案した。
■GHQから“ダメだし”
この時、監督下にあったGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)内のCIE(民間情報教育局)に放送許可を申請したが、敗戦国がこの期に及んで「合戦=battle」とは何事かと激怒され、「試合=match」で許可を得たとのエピソードも残っている。
「旅の夜風」の霧島昇ら戦前の流行歌や、戦後ヒット曲の第1号となった「リンゴの唄」の並木路子のほか、クラシックから新内流しまで26組が出演。近藤らはこの時の反響に手応えを感じ、いつかは本格的に実現したいと考えていた。
それから5年。記念すべき第1回紅白は、聴取者の関心を引くため出演歌手や曲目を事前に明かされなかった。そして、オープニングの入場行進が始まるやいなや…。近藤はその時の手応えを次のように述懐している。
「勝負はあった、とわれわれは思った。行進が終わるやいなや、ファンからの激励電話第1号が飛び込んできたからである。それこそ〈紅白音楽試合〉にも見られなかった反応の早さであった」(NHKウイークリー・ステラ臨時増刊「紅白の50年」)
■「正月」から「大晦日」に
翌27年の第2回は60分から90分に延長し、出場歌手も24組に増えた。歌謡曲や民謡のほかに、OSK日本歌劇団出身の笠置シヅ子の「買物ブギ」など、ジャズの影響を受けた開放的な曲も顔を見せ始めた。
28年の第3回までは正月の単発番組として放送されたが、同年2月にテレビ放送が開始されたことから大みそかの番組としてスタートする。つまり、この年は紅白が2回行われたことになる。会場は年を追うごとに観覧希望者が増えたことから、NHKから北東約1キロの有楽町にある日本劇場(日劇)に移動。高橋圭三アナの名調子もこの年から始まっている。
実は、会場探しをめぐっては、正月の劇場は公演がめじろ押しで“空き”がないことから、NHKは窮余の策として大みそかにずらしたといわれている。もし、会場が押さえられていたら、その後の発展があったかどうか興味深い。
そんな紅白に、昭和30年にはテレビ放送を開始したばかりのKRテレビ(現TBS)が同時刻に「オールスター歌合戦」をぶつけてきた。だが、まったく動じることなく、31年の第7回には50組に増加、40分延長(午後9時5分~11時30分)されるなど、文字通り“大みそかの風物詩”として定着していく。(豊田昌継)
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